目立たず、格好つけず、主張せず これからの「デザイン」のたたずまい - 朝日新聞社
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すっかり秋から冬に向かっている日々。空気がカラッと澄んで気持ちのいいひんやりした朝。一番好きな季節です。みなさんはいかがですか。
さて、今回も3話をお届けします。まずは買い物の話。結局僕も含め、人は死んだら何も天国に持っていけません。そんなことを考えさせられたということを書きました。捨てられてしまうようなものではなく、残したくなるものを買いたいですね。
続いて中国の蘇州に行った時の「デザイン」感についての話です。こういうものを、デザインと呼ぶべきなんじゃないかなぁという話。
最後は富山で体験した「おいしい」を超えた「おいしさ」の話です。やっぱり人を感じながら食べるって、大切だなぁというお話です。それではしばし、お付き合いくださいね。
“自分の買い物”はどこへ行くのか
生前、父から譲られた京都のお寺にある長岡家代々のお墓の権利。これはおじいちゃんが買ったもので、それを息子である父が受け継ぎ、それが僕に回ってきました。その権利を受け取る条件の中に「次に受け継ぐ人を設定する」というのがあって、子供もいないし、考えて見ると、「長岡」は僕で終わるということで、急に「あぁ、そういうことか」と、きっと何百年ものバトンリレーをしている京都の老舗の若旦那みたいな人から見ると「大丈夫かい? 最初からわかってたでしょ」ってことになる。
ま、「長岡」が途切れることについては僕にはそれほどの思いはなく、だからこうなっているのですが、もう一つ気づいたことがあります。「僕が持っているものは誰のものになるのか」ということです。
大量の本、集め始めたLP、静岡の家、無理をして先日買ったLeica(ライカ)、亀倉雄策さん(グラフィックデザイナー)から譲り受けたデスク……。家みたいな大きなものは別として(というか、家はなんとなく売ったりする未来が見えますが)、もっと細かなもの。世間的な価値というよりも「僕が気に入っているものたち」です。もちろん残した家族(妻)によって、買い取り店にタダ同然で持ち込まれて処分ということになるのでしょうが、問題は「今、それに気づいてからの、これからの買い物」って、なんだろうと思うわけです。
死んだら何も持っていけないので、「受け継がれる」か「売られる」か「捨てられる」かなのです。そんなことを考えてしまうと、買い物にちゅうちょしますが、理想的には「誰かに引き継がれて、ずっと残る」という買い物がいいですよね。と、同時に、ワインとか銘酒みたいな「食べて、みんなで幸せな時間を作れる消費」というのも魅力的に感じますよね。旅行なんかもそうかもしれません。
とにかく死んだら天国へは何も持っていけない。そして、家族や大切な人、多くの友人、知人に少なからず自分が影響した社会を残すということには、間違いないわけです。
いちいち「これは残せるか」とか「誰かもらってくれるかなぁ」とか考えて自分の買い物をするのもなんですが、でも、死んだら残るのです。それがゴミになるようなら、残した地球環境を多少汚すでしょうし、残って活用され、結果、多くの素晴らしいことを生むなら、それは素晴らしい買い物だったことになります。
普通に暮らしていれば、それがデザイン
中国の蘇州の観光地を歩いていてふと思いました。道路の脇の柵が主張していないのです。それを見て思いました。「こういうのがデザインって呼ばれるような国であって欲しいな、日本も」と。
デザインは今でも「主張」するものとされている。でも、おいしい料理を出す居酒屋には、そういうデザインはありません。そして、ないからこそ、おいしく感じる。だとしたら、それがデザインなんだと思うのです。主役を引き立たせ、自分は目立たない。そんなものを「デザイン」と呼ぶ国が、文化先進国で、なんだかデザインが主張し過ぎるのが、消費大国なんだと思うのです。
いわゆるこれまでのデザインは「普通じゃないもの」だと思いました。「おっ、デザインされていてカッコいい」というのがデザインでした。その一方で「なんとなく整っている、けれどデザイン性を感じない」というものがある。実はこれからはこっちがデザインなのではないかと思うのです。そしてそれは、「ちゃんと普通に暮らしていれば自然と現れるもの」なのではないかと思います。
デザインとは、競争に勝つためのものだったり、無理に格好をつけて強制的に整えようとするものだったりしたように思いますが、今後ますます、人工的でそうした無理やりさを感じるものをデザインと呼ばなくなる。よほどちゃんとものを見ている人にしか「デザイン」は見えないし、作り出せないものになっていくと感じます。
昨年中国を視察旅行した際、I.M.ペイ(イオ・ミン・ペイ/中国系のアメリカ人建築家)設計の蘇州博物館に所蔵された生活美術の数々を見て、また、日本の民藝を思い出しながら、「これはデザインなのか?」といちいち自問している自分がいて、その背後からもうひとりの自分が、自ら主張しないものたちのことを「これが、デザインなんだぞ」と言っているように思いました。
おいしいを超えた味
先週、富山県南砺市の城端にある善徳寺というお寺で、僕の店の勉強会「d school わかりやすい民藝」の3回目最終回のトークイベントを建築家の浜田晶則さん、デザインディレクターの林口サリさんと行いました。大きなカマドでご飯を炊きみんなで食べるという、おまけというには壮大な昼食付きの、本当に素晴らしい会でした。
前半は善徳寺の今井長秀住職からお話を聞き、お参りして善徳寺を散策。その一部にある民藝運動の創設者、柳宗悦がしばらく滞在して著書「美の法門」を書き上げた部屋を見学(ここに、その部屋があるんです)。そして料理家の中川裕子さんによる昼食。地元伝統食とカマドの炊きたてご飯。そしてお茶。質素といえばそうですが、十分といえば、本当に十分。食べている場所や作ってくれた人との距離、一緒に食べる仲間ということもあるのでしょう。この食事がとてもとてもいとおしかったのです。
鮮度とか、量とか、上質とかではなく、温かで、土地の旬であり、作ってくれた人とみんなで一緒に食べる楽しさというよりは「喜び」。おかずよりもご飯が多くて、それも少しずつ味わえた。ここから今の食生活を眺めてみると、なんだかぜいたくとかを通り越して、意味がないくらいに思えました。それくらい、この食事がいとおしかったのでした。裕子さんの人柄も、しっかり料理にしみていて、こんな食事は一生のうちで何度もないなぁと、考えながら感じながら頂きました。
考えてみたら、食事って大切だなぁと。おなかがすいたから食べるということのほかに、たくさんの意味があり、思いがこもっていた方がいい。最近はA5ランクの和牛だとか、カリスマシェフの……とか、そういう食に偏っているように思いますが、この体験で「食」って生きるあらゆるみなもとなんだなぁと、思いました。裕子さんの作ってくれた料理に「おいしい」を超えて「うれしい」を感じられた自分にも、びっくりと感謝。明日からの食について、いろいろ考えることができるいい時間でした。ありがとう、裕子さん。
僕はデザインを教えたり、考えたりするには、これからますます「心の美しさ」が重要になってくると感じています。そういう意味で、柳宗悦による民藝運動に関心があり、そこにある「宗教美学」という根底に関心があります。祈るようなデザイン。思いがあるデザインを生むには、経済至上主義では難しい。お寺ってまさにそんなことを気づかせてくれる場所としては最適だし、この場所で「美の法門」が書かれたということが、本当に最近、腑(ふ)に落ちました。僕がなぜ、富山になんだかハマり、通っているか、わかったように思いました。
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November 05, 2020 at 08:02AM
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