第2話 砂塵と回雪 ── バタフライ・ドクトリン 第1章 FUKA-SIGI【不可思議】 - Forbes JAPAN

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Artis-Media with ファンド・マネージャーという異色の経歴を持つ作家・波多野聖が書き下ろす、壮大な歴史経済サスペンス小説『バタフライ・ドクトリン』。現在、本誌で連載中の作品を、期間限定でWebでもお届けする。

前回までのあらすじ

2019年4月、独立行政法人理化学研究院は毎秒1000京回の演算速度のスーパーコンピューターの開発に成功し、"FUKA-SHIGI【不可思議】"と名付けた。そしてその3年後、2022年、横浜──。東京オリンピック後の建設不況、そして、突如世界を襲った金融恐慌。『国債運用の無謬性理論』を提唱していたヘッジファンド"ドラゴン・フォールド"社長の辰野怜は、国債暴落での運用失敗により、家族、信用、会社、財産、全てを失っていた。怜は、ドヤ街で1人の男を探していた。3つの家族を持つ恋多き破天荒な母、土岐子から会うことを勧められた、母の昔の男。その名も「ヤブさん」。──しかし、ヤクザたちに襲われ、気を失う。意識の混濁の中で気づくと、自分が蝶になって美しい花が咲き乱れる野原を舞っていた。そして次の瞬間、怜は古代中国の戦場にいるのだった。

>> 戻る 第1話 栄光と恐慌


第2話 砂塵と回雪


「こ、これは?!」

辰野怜(たつの れい)は目の前に広がる光景に息を飲んだ。

砂塵を巻き上げながら何十万という古代中国の軍勢が整然とこちらに向かってくる。横幅は数百メートル、奥行きは……どれ程になるか見当もつかない数の軍勢だ。騎兵や槍兵、そして木製の戦車を操る兵もいる。

その時、怜は奇妙な感覚に陥った。夢を見ていると思う怜自身の意識が次第に薄れ、戦場にいる男の意識と入れ替わっていくようなのだ。荘周(そうしゅう)と呼ばれる一兵士、弩弓(どきゅう)の射手になっていくのを感じる。そして、自分の後ろには数万の味方の軍勢が控えているのが分かった。

荘周が顔をあげると巨漢の将軍が立派な髭を揺らしながらこちらを見て笑みを浮かべている。その姿は不思議なほどの落ち着きと余裕を兵士たちに与えていた。将の将たる器とはこういうものだと、それは思わせるに足るものだった。

将軍は大声で檄を飛ばした。

「良いかッ!! 皆も知っての通りこの戦(いくさ)は我が宋の国の命運を決める。見ての通り多勢に無勢だ。しかしッ、我らの必殺戦によって勝利を呼び込む!!」

兵士たちは皆、将軍の言葉によって血が滾るのを感じていた。

「これより『必殺城郭の陣』を構えるッ!! 陣の最後尾に荘周を置く。荘周の並外れた弩弓の技に全てを賭ける! 良いなッ!!」

兵士たちは雄叫びをあげた。

次の瞬間、荘周の前に縦横50名、計2500名の兵士が正方形の陣を形成した。前と左右を巨漢の槍兵1500名が青銅の盾を持って囲み、その中に弩弓の射手1000名が立膝で構えながら潜む陣形だ。荘周の前には将軍が立った。

「荘周以外は俺を含め、全員捨て駒だ!! 我らの命が武器だ! 分かっているな!!」

兵士たちは再び雄叫びをあげた。

「荘周ーッ!! 貴様は斉(せい)の国の大将軍に一撃必殺の矢を撃ち込むのだ!! 味方は全員、命を賭してお前だけを守る! 分かっているな!!」
「ハッ!!」

荘周は途轍もない胸の高鳴りを覚えたが、異常なほど落ち着いている。

「やるべきことをやる」

その言葉だけが頭の中で繰り返されている。

物凄い地響きが近づいて来た。

「さぁー来るぞぉ!! 全員構えよ!!」

敵の先鋒隊が放った矢の群れが降って来た。

「──」

空気を切り裂いて落ちて来る数千の鏃が発する金属音に鼓膜が震える。

ガガッ!!
ガガガガッ!!

歩兵が青銅の分厚い盾で陣の上部と側面を覆い、雨霰と降って来る矢を完全に防いだ。そうして第一波の攻撃をやり過ごした。

「次が来る!! 構えよ!!」

間髪入れず数千の敵歩兵が槍を構えて突っ込んで来た。味方の槍兵はそれを次々に長槍で迎撃する。

「グハァ!!」

流れ出た大量の血の匂いが辺り一帯に充満し血痕の混じった砂塵が巻き上がる。

「殺せーッ!! 力の限り殺し続けろ!!」

陣の周りには死体の山が出来あがる。しかし、次から次に襲ってくる敵に味方の兵(つわもの)たちも疲労から隙を作り、敵の槍の餌食となって倒れる者が続出した。

「まだまだッ!! まだ頑張れ!!」

将軍は敵の大将軍の登場を待っていた。陣の内側に籠り立膝で弩弓を構えている射手たちもその時を待っている。

「!」

地鳴りの響きが変わった。それまでよりも一層重みを伴ったものになった。それは敵の騎馬軍団の登場を意味した。

「いよいよ来たぞ!! 良いなッ!!」

将軍のその声は、はち切れんばかりの明るさに満ちていた。弩弓の射手たちは自分たちの体内から限りない力が湧いて来るのを感じていた。数千の騎馬兵が鏃の陣形を作って猛然と迫って来た。

「良いかッ、大将軍はあの後ろに控えている。奴らの陣形を崩せば俺たちの仕事は終わる。後は荘周、お前の出番だ」

将軍は後ろに控える荘周を振りむいて笑った。荘周は落ち着き払って頷いた。

「よしっ、今だ!! 槍兵は突撃せよ!!」

槍兵の決死の突撃と同時に陣の中に潜んでいた弩弓兵が姿を現した。

「放てッ!!」

一斉に弩弓の引金がひかれた。

「グッ!!」
「ガハッ!!」

弩弓の放つ鋭く重い矢が迫って来る敵の騎兵を正確に射抜いていく。

「放てッ!!」

敵の騎兵は次々と落馬し土埃がいくつも舞っている。

「放てッ!!」

弩弓の連続発射と味方の槍兵の決死の突撃によって敵の騎馬攻撃の陣形が乱れていく。後方でそれを見た敵の大将軍は叫んだ。

「騎馬隊は一旦引けェ!! 弓隊、前へッ!!」

号令一下、数千の敵の弓兵が現れた。

「放てーッ!!」

整然と放たれた矢群は荘周の前に陣取っている味方の射手たちを次々に射殺(いころ)していく。
荘周は自分の前に立つ将軍の盾によって守られていた。死角に潜んでいる荘周は、敵に見えない。

必殺戦は最終段階に入った。

「……」

無数と思えた敵の矢弾が静まった。

敵味方入り乱れた数千の死体の群れの中、盾を捨て大剣だけを手にした巨漢の宋国の将軍ひとりが立っていた。斉の国の大将軍は軍勢の最前列に現れ、敵の将軍の姿を見て呟いた。

「全滅か……たった一人では何も出来んな」

そして、前列に揃う弓兵に号令を掛けた。

「放てッ!!」

将軍目がけて数百の矢が放たれた。

「!」

将軍の身体はあっという間にハリネズミのようになった。

「さぁ……荘周、頼んだぞ」

そう言って将軍は前のめりに倒れ絶命した。

「ん?」

斉の国の大将軍はその時、気づいた。ひとりの弩弓兵が倒れた将軍の真後ろに控えていたことに……。

(しまった!)

そう思った次の瞬間。

ズンッ!!

大将軍の眉間は矢で貫かれていた。

「……」

荘周は敵の大将軍が馬からゆっくりと崩れ落ちていくのをその目で確認した。

「見たか……宋(そう)の国の必殺戦。1人を殺すために部隊2500人、全員が死ぬ。必殺とは……自分たちの死のこと」

そう呟いて荘周は倒れた。敵の矢が左の首筋を貫いていたのだ。出血で意識が遠くなっていく。倒れた荘周は味方の軍勢が、大将軍を失い混乱した敵に向かって突撃していくのが分かった。

「やった……俺はやった」

満足感の中で荘周は意識を失った。

「?」

荘周は気がつくと……土の中にいるような、湿った空気の充満する暗い世界にいた。

「死後の世界か?」

夢ではない。ハッキリと意識がある。何とも嫌な息苦しさを覚えるのだ。

「ハァ!!」

その場から逃れるように大きく息をした時、荘周は驚いた。

「何っ!?」

身体が宙に浮いている。そして、目の前に広がっているのは明るい野原だ。光に満ち、花が咲き乱れている。自分はその花のひとつにとまった。

「エッ!?」

荘周はその時、自分が蝶になっていることに気づいた。

花の蜜の味はこの上なくみずみずしく甘い。荘周は満足するとまた羽根を動かして舞い上がり別の花に向かった。

「あぁ……」

荘周は陶然となっていた。何もかも快く微細に感じられる。風の動き、光の流れ、自分の羽根の鼓動や鱗粉の飛び散る様まで……全てが快い。

己の意識がこの世の存在全てと繋がっていることが分かり、あらゆることが理解出来る自分がいた。全てを受け入れる寛容、全てに受け入れられる安堵感……それが同時にあるのだ。何もかもがひとつであると感じ、それゆえの幸福感に満たされていた。これまで感じたことのない巨大な優しさに包まれている。

「世界は……こうなっているのか」

そう思った次の瞬間、全てが変わった。

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May 02, 2020 at 06:00PM
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